民俗学者宮本常一はその代表的著書「家郷の訓(おしえ)」の中で、身近に生きた無名の人々がどんな老後を送ったかを愛情をこめて書き著しています。

宮本常一は、1907年山口県で生まれ小学校の教員を経て民俗学者になりました。その中で、終戦後悲惨だった底辺に生きる人々の老後のことについて書いているので紹介しますね。

「終戦後のこと、郷里のある島にひとりの老人が小さい小屋を建てて住みついた。外地からの引揚者であったらしい。はじめ妻がいたがまもなく亡くなりひとりになってしまった。親戚の者が引き取ろうとしたが、生きられるだけそこで生きるからと云って小屋を動かなかった。

どうやって暮らしを立てたかというと、海岸に流れ着いた寄木を集め海水に煮詰めて塩を製造した。戦後、塩がたいそう不足していたので、塩と交換に麦や芋を手に入れることができた。

けれども、しばらくすると塩が出まわるようになって老人の塩は売れなくなった。老人は少しの貯えで麦や芋を買い、磯で拾った貝や海藻を煮ておかずにし細々と生きついた。島には水がないので、潮を引いているとき陸続きになる村まで水をもらいに来た。

そのうち、老人は病気になり死期が近づいた。老人は通りかかったものに声をかけて、親戚のものを呼んでもらった。身の後始末を頼むためである。老人はひっそりと死に小屋はすぐ解かれた。何事もなかったようにそこは草に埋もれていった。」

宮本常一は続けてこう書いています。

『ここにこうして書きとめねば誰の記憶にもとどまらないほど、ひっそり消えていった人生であった。この人にも語れば語って聴かせるほどのライフヒストリーがあったはずである。それはそのつつましく清潔な晩年がおぼろげながら物語ってくれるのだが、この世に何ものこさなかった。墓すらもたてられはしなかった。

この世に生まれたからには、生きた証を遺したい、あるいは世のため人のため、優れた業績を残したい、と考える人も多かろう。けれども私などは、この島の老人に、一種、畏敬の念を覚える。老人が親戚の世話を受けようとしなかったのは、迷惑をかけたくないという消極的な理由だけでなく、矜持がそうさせたのではあるまいか

制度が整っている今日の状況とこの戦後とでは意味合いが異なってきますが、それでも、高齢者のひとり暮らしや孤独死など変わらないところも多々ありますね。

僕は宮本常一の“この人にも語って聴かせるほどのライフヒストリーがあったはずである”というのは、時代がどれだけ経ようが変わることのない真実の言葉だと思います。

無名の人であってもひっそりの消えゆく人生でなく、語って聴かせるライフヒストリーをしっかり遺していく。これを推し進めるのが私たちの使命だのだ。』と宮本常一が著した書籍の読み、そう痛感しているところです。