「誰でも面白い一冊の本が書ける」といったのは、『月と六ペンス』の著者イギリスの作家サマセット・モームの言葉ですね。

この仕事をしていると、つくづく「この言葉は正しい」と感じます。だけど、人ひとりの生涯は書く内容が満載でも、実際に自ら筆を持って書ける人はそれほど多くはないですね。

そんな時、出版社はゴーストライターを紹介します。ゴーストとは幽霊の意味ですから、まったく表に出て来ません。ゴーストライターあくまでも本人の代わりに本を書く人のことです。

自伝の主人公がいかにも自分で書いたような文章表現で、その構成もすべて本人がしたかのようにカモフラージュします。そして最後の最後までゴーストラーターは自分の名前を明かすことはありません。

サマセット・モームは、はたしてこれを望んでいたでしょうか。

今や自費出版が一般に普及し、それこそ誰でも本を出せる時代になりました。読者として以外、出版とはまったく無縁に生きてきた人が、生涯に一冊本を出せる時代になってきたのです。

そして、そのテーマのほとんどが自伝や自分史に関するものですね。

自伝の歴史を振り返ると、紀元前91年ごろに完成したという『史記」をまとめた前漢の歴史家、司馬遷の最終巻に収めた『太史公自序』からはじまって、古くから夥しい数の自伝が書かれています。

改めて、いったい人はなぜ自伝を書くのでしょうか?

私が、もっとも普遍的だなぁと思っているのが、アメリカの政治家で科学者でもあったベンジャミン・フランクリンですね。彼はアメリカの独立宣言の起草者のひとりです。

彼の著した『フランクリン自伝』は、アメリカ合衆国草創期の精神を知る書として日本でも多くの読者を得ています。

この本の冒頭で彼は、「なぜ自分は自伝を書き遺すのか」、その理由を3つ挙げています。一つ目は、貧しい環境から身を起こし、富裕で幸運に恵まれるようになるまで、「私が用いた有益な手段を子孫に伝える」ため。

二つ目に挙げたのが、「老人によくある、身の上話や手柄話ばかりしたがる癖を満足させる」こと。そして、三番目が「自分の自惚れを満足させる」こと。

まったくその通りですね。これこそ自伝を書く人の偽りのない動機であると思っています。

これまで数えきれないほど自伝や自分史に関する本、それも有名人が書いた本を読んで来ましたが、必ず「自慢話を書くな」とか「自分だけの史にするな」、或いは「自惚れるな」と書かれています。

「自慢話を書いても読み手に嫌がられるだけだ」とか「人間性を疑われる」、「まったく面白みのない自伝になる」などいった論調が見られます。

果たして、そうでしょうか。

私は最近、大いに「自慢話をすればいい」、「手柄話を語ればいい」、「自分の自惚れを満足させる文章にすればいい」と思うようになってきました。

他人を批判したり傷つける文章は論外ですが、自分のことについては、誰にも遠慮する必要はないのです。

「これまでの生きてきた中での手柄話、自慢話、自惚れなどを遠慮せず大いに語り、あとは私たちライフヒストリアンに委ねて頂きたい」と顧客にはそう伝えています。

そして、私たちの責任のもとで文章を構成し、語り手と読み手が納得できる『デジタル自伝』と『ライフヒストリーブック』を創り上げていきますよ。