福沢諭吉の《福翁自伝》は、「福沢諭吉口述、矢野由次郎速記」とあるように、諭吉が話をし、矢野が速記を取り、それを諭吉が推敲して加筆・修正するという方法で書き上げまとめたものです。

諭吉が64歳になった明治30年(1897年)、ひとりの外国人の来訪があって、彼は諭吉に明治維新前後の実歴談を求め、諭吉は、日本の当時の情報を世界に正しく伝えようとその依頼を受けました。

そのとき、「どうせ話すのであれば、幼児時代から現在に至るまで語ろう」と考え、当時新聞記者として有名だった矢野由次郎を呼んで、彼の前で口述し、その筆記に手を入れてできあがりました。

諭吉はこの中で、「私はいかなるときも目下の者や身分の低い者を蔑視したことがない。」と語り、

『私の生涯は終始変わることなく、少年時代の辛苦、老後の安楽、何も珍しいことはない。今の世界に人間普通の苦楽を嘗めて、今日に至るまで大いに愧(は)じることもなく、大いに後悔することもなく、心静かに月日を送りしは、先ず以て身の仕合せと云わねばならぬ。』と書いています。

このような表現が随所に出てきますね。

諭吉が政治に首を突っ込まず、経済的な充実を通して日本人の民意を引上げようとしたことを、矢野に向かって口述を続けながら、ひとつひとつ自己確認して書き綴っていったのでしょう。

矢野由次郎は、こう言います。

「口述は毎月4回づつ、1回およそ4時間ぐらいで、1回分の速記の原稿が出来上がると、福沢が自分で綿密に訂正加筆して、さらに次の一節に進むというやり方で、その口述の際には、ありふれた年表のようなものを手にしていただけで、別に手控えのようなものを持たず、ことごとく記憶によって話した。」と。

《福翁自伝》を読むと、その中に矢野の速記と諭吉の推敲の名残が感じられますね。

福翁自伝の冒頭は、『福沢諭吉の父は豊前中津藩の士族福沢百助、母は同藩士族橋本浜右衛門(はまえもん)の長女、名を於順(おんじゅん)と申し、父の身分はヤット藩主に定式(じょうしき)の謁見が出来るというのですから、足軽よりは数等宜しいけれども、士族中の下級、今日で言えば、判任官の家でしょう。(中略)それゆえ家内残らず大阪に引っ越していて、私共は皆大阪で生まれたのです。』

口述文章の独特の雰囲気がありますね。例えば、出だしの「福沢諭吉の父は・・・」というところがたいへんユニークで、普通なら、「私の父は・・・」、或いは「父は・・・」で始まるところに諭吉と矢野との共同作品の匂いがします。

また、「ヤット」という片仮名の部分が会話体であるとか、「それゆえ」という文語体が混じってしまうのは、実際に諭吉が語った言葉を本人が直したことがよくわかります。

口述には、こんな楽しい日本語表現ができるのですね。

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