心理学者岸見一郎さんの『老いる勇気』から、前回に引き続き、岸見さん自身やお母さんの病気のこと、またお父さんの介護について話されているので、まとめてみました。

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ベストセラーになった『嫌われる勇気』や『幸せになる勇気』には、アドラー心理学の要諦として「今、ここ」だけを真剣に生きることがある。

母の話に戻ると、病床の母はまさに「今、ここ」に生きていた。以前“勉強の到達点”について話をしたが、母は人生の到達点もあえて気にせず、その日その日を懸命に生きていた。

病気や老いで身体が動かなくなっても、今日という日にできることは必ずあるはず。

私たちは、その「できること」をやり続けていくしかない。それが「今、ここ」に生きることの意味だ。人は、過去に捉われず、将来を憂えず、今できることをすべきだ。

だが、私たち人間の生きる価値は、その人の「できること」とは関係がない。その人が「生きていること」それ自体に価値がある。

今、私が危惧しているのは、人間の価値を「生産性」で捉える見方が社会に広がっていることだ。

社会で、生産性や効率ばかりが重視されるあまり、老いや病気によって、あるいは障害によって、ある人が経済的に何も生み出さなくなったとき、「その人には生きる価値がない」と考える人が増えている。

2016年7月、世の中を震撼させた相模原の障害者施設殺傷事件は、まさにそういった思想の持ち主によって引き起こされた。

だからこそ、私は声を大にしていいたい。人間の価値は、生産性や行為では決まらない。人間は、何もできなくなっても生きているだけで価値があるのだと。

そう考えると、自分自身が何もできなくなっても、「生きているだけで自分には価値がある」と思えるようになる。そう思える人こそが、他者に対しても生産性ではなく、生きていることそれ自体に価値を見出せるのだ。

『老いる勇気』では、90歳を超えてから親鸞の『教行信証』の英訳に着手した仏教学者・鈴木大拙の例を挙げながら、「自分には無限の時間がある」と考えることの意義が説いている。

人はいつか、必ず死ぬ。その事実をいたずらに怖がっていると、「今、ここ」に生きる喜びをふいにしてしまう。

今、自らの死を意識しつつ人生を総括する「終活」に注目が集まっているが、「終活」が悪いとは思わない。

特に財産のある人は、遺産相続などで遺族がもめないよう、生前からきちんと準備しておく必要もあるだろう。

しかし、自分の人生について、将来のことはあまり考えないほうがいいのではないか。先々のことを考えてしまうと、どうしても「今」が疎かになる。

「終活」に意識を向けないほうが老いを楽しめるし、幸せな老いを過ごせるのではないか。老後の生活を全く考えなくていいといっているのではなく、生きる姿勢の話なのだ。

私が、病気をしたことの影響は大きい。心筋梗塞で倒れた直後は、自分がいつまで生きられるのか不安になり、病院のベッドで毎晩、輾転反側(てんてんはんそく)していた。

そこで、私は主治医の先生に睡眠導入剤を処方してもらった。すると今度は、「翌朝目が覚めなかったらどうしよう」と不安になり、睡眠導入剤を飲むのが怖くなった。

不安が取り除かれたのは、意識が他者に向くようになってからだ。入院当初は四六時中、自分のことしか考えられなかった。

だけど、病状が日々よくなっていくにつれて、家族や友人など、自分が生きながらえたことを喜んでくれている人たちがいることに気づいた。

自分は寝たきりで今は何もできないけれど、それでも生きているだけで「よかった」と思ってくれる人がいるんだと。

こうした事実は、逆の立場で考えれば容易に想像できる。

例えば、私の友人が緊急入院したと聞いたとき、「命は助かった」と聞いただけで「よかった」と安心できる。生きていてくれるだけで、その友人は私に貢献をしてくれていることになる。

また、私が元気を取り戻すにつれて、多くの看護師さんが勤務時間後や非番の日に私の部屋へ来るようになった。私がカウンセリングの仕事をしていることを聞きつけて、相談事を持ちかけて来られたのだ。

心筋梗塞の経験から、自分はこうして何もできずにベッドに寝ていても、誰かの役に立てているのだと貢献感を持てることができた。

すると、毎晩薬を飲んで眠ることが怖くなくなり、そして、毎朝元気に目が覚めることに感謝するようになった。

「先のことはどうなるかわからないけど、とりあえず今日一日を精一杯生きよう」と、心から思えるようになった。

私の父の記憶喪失の話をしよう。初めは私と父の共有していた歴史がすべて失われたように思えた。

2009年から2012年までのおよそ4年間だった。最初の2年間は、一人暮らしをしている父の自宅に私が通う形での在宅介護で、その後の2年間は介護老人保健施設のお世話になった。父が80歳から84歳まで、私が53歳から57歳までの期間。

父に介護が必要となったのは、アルツハイマー型認知症を発症したから。母が亡くなってから、父は長く一人暮らしをしていたので、父の病気に気づくのが遅れてしまった。

ある日、父のクレジットカードが残高不足で決済できないと銀行から私のところに電話がかかってきて、それでようやく父の病気に気づいた。

父が多くの記憶をなくしていた。私の母、つまり父にとっては愛する妻の記憶をもなくしていた。

母の写真を見せても、父には思い出すことができなかった。私からすれば、私と父の共有していた歴史がすべて失われ、私の存在までもが消失してしまったように思った。

しかし、父の身になって考えてみれば、忘れたことにも意味があるのだろうと考えた。「四半世紀も前に妻を亡くし、その後一人で暮らしてきた」という事実を覚えていることが、80歳の父にとって、はたして幸せなことだったのか。

もしかすると、思い出したくない記憶として、母の思い出まで抑圧していた可能性もある。そうだとすれば、無理に思い出さないほうがいいのかもしれないと。

認知症の症状が出ているときの父は、自分が置かれている状況がわからないまま、霧の中で一日を過ごしているような感じだった。

父は母のことを忘れてしまったが、霧が晴れた日には、母のことを幾分かは思い出せていたようだ。しかし、どうしてもはっきりとは思い出せない。

あるとき父の発した一言が、今でも忘れられない。「忘れてしまったことは仕方がない。できれば、一からやり直したい」。

この「忘れてしまったことは仕方がない」という父の言葉は諦めの言葉ではなく、父の覚悟を示す宣言だったのだと思っている。

ー続くー

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かつて障害者施設で仕事に従事し、現在も高齢者施設での業務に関わる中で、岸見さんの話はたいへんよく理解できますね