アドラー心理学の大家で、著名な心理カウンセラーである岸見一郎さんが書いた《老いる勇気》から、引き続き、その要点をまとめて書き綴りますね。

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父の介護は正直たいへんだった。けれど、今思えば時期的にはタイミングがよかった。

私にとっては心筋梗塞で倒れて3年後、冠動脈バイパス手術を受けて2年後にあたり、ちょうど仕事をセーブしている時期だったから。

それだけ時間に余裕があり、父が一人で暮らす家を毎日訪れることができた。父の人生の最期の時期に、父と再び時間を共有することができて、今では感謝している。

私は、親を介護する上で、最も重要なのは、ありのままの親を受け入れることだと思う。

生産性で人をみてはいけないという話をしたが、現代社会で生産性至上主義に毒されてしまった人は、自分の年老いた親に対してさえも、とかく生産性の観点から評価しがち。

例えば、一家の大黒柱としてバリバリ働く父親や、家事や育児に奮闘する母親など、何でもできる親の姿を理想としてみてしまう。

すると、年老いて生産的なことが何もできなくなってしまった親に対しては、失望するしかない。理想からのギャップがありすぎて、現実の親を理想から引き算してみるしかできなくなる。

そうなると、親の介護は辛いものになってしまう。親と接するたびに弱った親を見て胸が痛むはずだから。

だが、生産性で人をみることを止めれば、親に対する見方も違ってくる。人は、生きて存在しているだけで価値がある。そう思えると、年老いた親をありのままに見て、ありのままの親を受け入れることができるようになるだろう。

この「親をありのままに見て、ありのままを受け入れる」ということが、親を「尊敬する」ということなのだと思う。

著書《老いる勇気》では、「介護が必要になった親は『今、ここ』を生きている」と書いた。

一方、『今、ここ』はアドラー心理学のキーワードでもある。『今、ここ』を生きることができれば、介護も親のことも違ったふうに思えるようになる。

介護はしばしば、子育てと比較される。「介護と子育てはどちらも大変だけど、希望を持てる分だけ、子育てのほうが楽」といわれることがある。

子育ての場合、今日できなかったとしても、明日にはできるようになるかもしれない。だから希望が持てるし、努力もいつかは報われるというわけだ。

一方の介護では、今日できたことが明日にはできなくなるかもしれない。しかも子育てと違って、介護はいつまで続くか先が見えない。だから介護は希望が持てないし、努力も報われない。そんなふうにいわれたりする。

だが、私は、介護も子育ても、明日どうなるかを考える必要はないと思っている。

大切なのは、「今日一日」をどう生きるか。『今、ここ』に常にスポットを当てていれば、介護もそれほどつらいものではなくなるはずだ。

認知症だった私の父は、会話するとき、常に現在形で話をしていた。過去は思い出せないし、未来には考えが及ばない。

つまり父には、常に『今、ここ』しかなかったわけだ。そんな父は、ある意味において、人間の生き方の理想を体現していたのかもしれない。

私たちのように、過去をいつまでも引きずって後悔することもなければ、未来を思って不安になることもない。ただ、そのときどきの瞬間瞬間を生きていた。

現在、私には8ヵ月の孫がいる。屈託のない孫の笑顔を見ていると、晩年の父もこの子のように楽しく生きていたのではと、ふと思う。

認知症になった父は、『今、ここ』に生きることの大切さを、身をもって私に教えてくれていたのかもしれない。

高齢者の中で『今、ここ』に生きている人が、同じ話をされることがある。だが、同じ話を何度聞かされることになっても、また同じ話だと思ってはならない。

私の友人の精神科医は、自分のおばあさんから「この話、前にもしたかね?」と聞かれると、決まってこう答えたそうです。「うん、前にも聞いたよ。でも、おばあちゃんの話は何度聞いても面白い」と。

私も、そのような受け答えができるようになりたいと思った。精神科医の仕事は、患者さんの話を親身になって聴くこと。

彼は子どもの頃、おばあさんの話をいつも面白いと思って聞いていたので、精神科医になったと言っていた。

とは言え、厳密にいえば、いつもまったく同じ話をするということはない。注意深く聴いてみると、話し手の、そのときどきの精神状態を反映して、ディテールや重点の置き方が微妙に違っている。

聴くたびに、内容は少しずつ変わっていくのだ。またさらにいえば、聴く側の私たちの感じ方も以前とは違っているはずだ。

同じ1冊の本でも、初読と再読では感じ方が異なるのと同じだ。「同じ川には二度入れない」。これはギリシアの哲学者ヘラクレイトスの言葉。

川の水は上流から下流に向かって常に流れ続けているので、同じ水は二度と流れてこない。『方丈記』の「ゆく川の水は絶えずして…」と同じ発想。

しかも、その川に入ろうとしている自分は、昨日までの自分ではない。川に入る人間がすでに違っているという意味でも、同じ川には二度と入れないことになる。

そう考えると、何度も聞いたように思える話でも、実は毎回初めて聞く話ともいえる。そのときどきの精神状態を知るためにも、話にはじっくり耳を傾けるべきだ。

排泄の世話など、何か特別なことをするだけが介護ではない。親と同じ空間にいるだけでも介護になる。それを多くの人に知ってほしい。

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「はい、前にもお聴きしましたよ。でも、○○さんのお話は何度聞いても面白い」

ライフヒストリアンは、この心構えがとても大切なんですね。