昔は、と言ってもかなり遠い昔のことになるでしょうか。高齢者は現役を退いても長年培ってきた経験知によって、現役の世代から意見を求められ、それによってお年寄りも現役世代も自らも役割を果たし、共に社会を作ってきましたね。
しかし、長年、高齢者介護に関わって感じることなのですが、今の世の中は、〈老いというのはやっかいなもの〉としてしか捉えられなくなり、老いにより一人でできないことが増えた老年者たちは、一方的に介護され保護されるしかなくなっている。
哲学者の鷲田清一は、その著書《老いの空白》の中で次のように言っています。
「老いが尊敬された時代というのは、〈経験知が尊重された時代〉のことである。ところが産業社会の中では、機械化・自動化・分業化による能率性の向上が第一に目指されるため、人が長年培ってきた経験知よりも、誰もが訓練でその方法され学習すれば使用できる〈技術知が重視される〉ことになる。
そうした社会では、老いは衰退であり、非生産的=無用なものとして負のイメージを負わされてしまう。だが、〈老い〉や〈経験〉がその価値を失うということは、〈成熟が意味を失うこと〉であり、更には〈大人になることの意味が見えなくなる〉ということではないか。」
〈大人になることの意味が見えない社会〉にいったいどんな〈未来〉があるのでしょう?
介護の現場とは、まさにそうした社会の縮図ですね。実は本来その〈老い〉に向かわなければならないはずの介護の現場にも、産業社会と同様に能率性や成果が求められています。
介護に携わる者は、あくまでも、利用者やお年寄りが抱える課題を解決するために、専門的な知識を持ち、彼らを保護し、教え、与えるべき存在であるとされています。
また、人手不足の中、多くの利用者の介護を安全に効率的に行うことが必要とされ、どのスタッフも同じ対応ができるように、介護現場では技術やノウハウをマニュアル化してあり、そこには問題解決のための対処法に重点が置かれ、〈老いるとは何か〉、〈人間はどう生きるべきか〉といった哲学的な問いや葛藤などは求められない。
介護事業がビジネスである以上、ある意味当然のことなのですが、そのため介護の世界においても、老いの価値が失なわれてしまっていますね。
そんな中で、僕が進めている回想法や口述自伝制作は、高齢者の経験知を尊重することから始まり、聞き書きによって、利用者や顧客の生き方が立体的に浮かび上がってきます。
そこでは、高齢者を一方的に介護するという立場ではなく、その方の生き様や数多くの体験談、ライフヒストリーなどから教えを受けるという立場に代わっていきます。つまりお年寄りが私たちの師となる。
僕は常々、〈老いに価値を見出さなければならない〉と思っています。過去の記憶を掘り起こして、共にその方の人生に向き合うため、介護施設で行う回想法やライフヒストリー良知事業は、人が老いていくことのあり方や意味を考えていく上でたいへん深い営みであると確信できるのです。