人は誰しも数々の〔回想の引き出し〕を持っていますね。ほとんど無限といってもいい膨大な数の引き出し。そこには無数の記憶がつまっています。

だけど、その引き出しを開けたり閉めたりすることを怠り、放っておいたのでは錆付いてしまう。いざ、その引き出しを開けようとしてもなかなかうまくいかない。

なかには、押しても引いても開かずの引き出しになってしまっているものもあります。

過去と現在と未来、すべてが人生ですね。今ここをしっかり生きながら、明日を夢見ること、そして昨日を振り返るが大切だと思っています。

その視点で、引き続き五木寛之の《回想のすすめ》から抜粋して書き記しますね。

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最近、物忘れがひどくなってきた。ことに人の名前がなかなか思い出せない。

体力や気力の衰えは自然現象だが、脳力の低下には個人差がある。長寿社会に生きていて、いちばん気になるのはその点だ。まして文筆家にたずさわっている身としては、ボケては仕事にならない。

脳力の低下は一体どうすればいいのか。それが問題だ。

最近よく聞く言葉に「フレイル」というのがある。高齢者の筋力や体力が落ちて、日常生活に支障をきたすほどに衰えがでてくることをいう。

周囲の会話についていけないような状態にはなりたくない。

私が勝手に考えているのは、古い昔の記憶を思い返すことである。一種の〔回想療法〕ともいえる。

記憶とは不思議なもので、つい昨日のことを覚えていないのに10年前、20年前の出来事をまざまざと思い浮かべることがある。

人生後半の生き甲斐は、明日を夢見るのではなく、昨日を振り返ることだ、と私はずっと言い続けてきた。昨日を振り返ることは、過去に逃避することではない。

歴史とは時代の回想ではないか。歴史に関心のない社会は、未来を夢見る資格がない。

歴史とは時代の回想である。私たち日本人は、昭和、平成の二世代にわたって、明治を熱く回想してきた。そのことによって高度成長をなしとげたのだ。

令和の今日、私たちの最大のテーマは昭和の検証、平成の点検である。私はいま、昭和という時代にクールな視線を注ぐべきだと思っている。

歴史は回想なのである。

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五木寛之の回想についての考えに共感していますよ。

ー続くー