自伝の最高峰と言われる福沢諭吉の《福王自伝》について、書き記しますね。

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今から126年前、1897年(明治30年)の秋のこと。数え年64歳になっていた諭吉は、東京の三田にある自分の屋敷へ、速記者の矢野由次郎を招き寄せていた。

矢野と向かいあって座った諭吉は、身長170センチ余り。その頃としては、中々立派な体格だったが、さすかに寄る年波に髪は少し白く、またやや薄くなっていたようだ。

諭吉は、この辺が生涯の一つのくぎりだと思ったのだろう。波乱に飛んだ自分の一生をまとめてみようとしていたのだ。

諭吉の頭の中には、おそらく自分のこれまでの人生が、走馬燈のように浮んでは消え、消えては浮んでいたことだろう。

それは、ちょうど日本の封建社会から近代社会へ変わる、その変わりめに生まれあわせたものに特有の、激動の生涯だった。

将軍の世の中から、天子の世の中になる。儒教の教えが幅をきかせていた社会が、ヨーロッパ文明のどんどんは入ってくる社会になる。 

それは、日本にとってたいへん大きな大きな転換だった。同時に諭吉自身の生涯にとっても、そのまま重ね合わされるものだった。

薄く目をとじた諭吉の前には、そうした過去がはっきりと浮び上ってきた。

自分はこの激動の時代を生き抜いてきた。しかも単に生きただけではなく、国民を思想的に文明のほうへ導いてきたのだ。実に充実した生涯だった。

そう思うとすでに老境にはいった諭吉の体には、改めて力が湧いてきたに相違ない。

「よし」と低く呟いた諭吉は、パッと目を開けて、歯切れのよい口調で矢野に向かって語りだした。ありふれた年表を手元において、〔心覚えのメモ〕を手にしたままに。

こうして始められた自伝の口述は、ほぼ1週間おきに、1回およそ4時間くらいをひとくぐりとして、その年の冬から翌の春にかけて続いた。明治31年のこと。

矢野がそれを文字にして諭吉のところへ届けると、そのたびに福沢は原稿に熱心に手を入れるのだった。

後に、矢野はこう語っている。「口述するにあたって、先生はほとんど記憶に頼ったように見えた。」と。遠い過去の細かなところまではっきりと覚えていたと矢野は驚いている。

だが、諭吉は、一見無造作にみえながらも、実は十分の用意を整えて口述に臨んだのだ。

今日残っている〔心覚えのメモ〕には、この自伝の大体の筋書きとか、またいろんな事件の当事者に直接に面会して聞きとったことなど記されている。諭吉がこの自伝にかけた意気ごみのほどがよくわかる。

諭吉と矢野の共同作業は、こうして半年以上も続いた。最後の部分の原稿に手を入れ終わって、諭吉がホッと一息ついたのは、明治31年の桜も過ぎて、三田の屋敷の緑もひときわ濃くなった5月11日のことだった。

原稿の終わりに諭吉は、いろいろの感慨をこめて日付けを書き入れ「終」とした。

このようにして決定稿ができあがると、福沢諭吉は門下生を呼んでこれを清書させ、その原稿を〔時事新報社〕へ送り連載が始まった、そして後に単行本として発刊されることになる。

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この本が、何ら屈託もなく、あけっぴろげの自己肯定になっているのは、諭吉が日本の近代化への方向と、そこに自分が果した役割を手放しで、「よし」と信じているからでしょう。

諭吉自身が封建社会との戦いを通じて、自分の近代的な価値観をしっかり心に植えつけた人間へと、自ら鍛え上げていったのです。

今まで正しいと信じていた事が、一つ一つ崩されて、新しい真理に目覚めていく際の心踊る経験を、福沢諭吉はユーモラスに、またドラマティックに描いていますよ。

そして、私は、ライフヒストリアンの先駆者である矢野由次郎の志と〔聞き書き技術〕をしっかり身につけ、ますます深く究めていこうと思っています。