自伝とは、自分が生きてきた、或いは生きている証明です。自伝は、そのような道を誰かに伝えたい気持ちがあふれるときに書きます。

以前、新聞社に務めていた知り合いから、次のような話を聞いたことがあります。「『新聞記事の文章表現の原則は何か』と問われるなら、俺はこう答えるよ。一番に正確に書く、次に簡潔に書く、そして読みやすく書く。つまり正しく、短く、やさしくというのが大事なんだ。ただ、新聞社の事業の目的は、新聞の部数を増やすことにあるから、なかなか思い通りに書けないことも多い」と。

正確・簡潔・平易、これを頭に置いて自伝を書くなら、けっこうつまらないものになってしまいますね。何故なら、自由奔放という自伝で一番大切な文章表現力が失われてしまうからです。

正確でなくてもいい。過去のことだから忘れ去っていることもあるし、記憶違いもある。簡潔でなくてもいい。人の心理は複雑なのだから、そんな上手い具合に文章をまとめられるものではない。平易でなくてもいい。読み手をあまり意識しすぎると、何も書けなくなってしまう。

だけども、なかなか自由奔放に書けない。そんなときは語ることだろうと思いますね。

かつて、福沢諭吉がそうでした。あの名著〈福翁自伝〉は、諭吉が口述した内容を矢野由次郎という、当時の時事新報記者が速記し、その原稿に諭吉自身の手で推敲し加筆するという形で書かれました。

そのため、文章の中に諭吉の記憶違いなどが散見され、また文法の誤記などもあったそうです。もっともこれらは後に訂正されていますが。つまり、自伝の最高峰と言われる〈福翁自伝〉は、口述自伝だったのですよ。

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