心理学者でカウンセラーの岸見一郎さんは、《老いる勇気》という本を書いています。岸見さんと言えば、10年ほど前に《嫌われる勇気》という本を出版し、ベストセラーになりましたね。
《老いる勇気》の話をする前に、《嫌われる勇気》について触れます。その骨子について少し長い文章になりますが書き綴ります。
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私はカウンセラーとして、様々な人の悩みを聞く機会が多いのですが、嫌われることを恐れる人が多いように思う。
職場では、上司の顔色をうかがったり、上司によく思われたいと考えたりして、気持ちを曲げて発言する人がいる。
同僚などとの横のつながりでも、自分がどう思われるのかをいつも気にして、嫌われないようにする。なるべく目立たないようにしようとする人も少なくない。
普及が進む《フェイスブック》などのSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)でも、メッセージを書き込む際に、“いいね!“を押してほしいと思って、“受ける”メッセージを書いてしまう。
押してもらえないと残念なので、迎合して、自分の真意でもないことを書く。インターネットやスマートフォンが普及して周囲とつながる機会が増える中、嫌われることを恐れる人が増えている。
もちろん自分の主張を伝えることには責任がある。主張した時には、必ず反発する人がいて、摩擦が生じるのは当然のこと。
それを理解する必要がある。摩擦を怖がって、ひるんで、逃げる。世代を問わず、どんな層でも、そういう人が多い。
人の気持ちに目を向けないくらいにならないと、決断できません。私はカウンセリングする中で、多くの人が【決定できない】と感じている。
人を傷つけたくないと思っているからだ。そういう場合、私は、一時的にでも、人の気持ちをあまり考えないような援助をする。
多少の事ではびくともしない。人の気持ちよりも、自分がどうしたいのかをまず考えることで、人生が変わることが多いのだ。
日本の社会は和を重んじる。嫌われる勇気がある人がたくさんいて、自分の意見をどんどん言うようになると、職場や学校の和が乱れて、大変なことになったりするというと意見がある。
太平洋戦争の頃を思い出してほしい。『これはおかしい』と思っても、戦時中は異を唱えられなかった。その結果、戦争を止められずに、多くの人が命を失い、悲惨な結末を迎えた。
だから『おかしいことはおかしい』と言える人が増えた方がいい。みんながやさしくて人を傷つけない方向に行くと社会自体が大変なことになる。
気が付いたら指摘するべきです。それはおかしいんじゃないかと言える社会の方がいい。
相手が年長者でも上司でも親でも、自分自身の考えを言えるように多くの人になってほしい。抵抗があってもそれは仕方がない。自分の主張に伴う責任です。みんなが主張できない世の中は危険だ。
アルフレッド・アドラーは、ジークムント・フロイトやカール・グスタフ・ユングと並ぶ心理学者として世界的に有名だが、日本ではそこまで知られていない。
なぜ関心を持つようになってかと言うと、来日したアドラー研究者の講演会に参加したのがきっかけ。『今日この講演を聞いて、幸せになりたいと思う人はすぐに幸せになれる。自分の決心でなんとかなる。自分がどういう風に生きるのか。それを考えれば幸福になれる』といった趣旨のことを話していたね。
最初はうさんくさいなあと思い、反発も覚えたのだが、よく考えるとそうかなと思える部分が多かった。
大人でも子供でも嫌な感じがしない言葉は『ありがとう』。相手の貢献に注目する言葉で、役に立ったという気持ちになるからだ。
そんな大人同士の言葉をかけたらいい。そういう風に思えることが、自己受容につながり、自分のことを好きになることにつながる。
むやみに怒る上司はいやだというのと同じで、叱ることは人と人との関係を近づけはしない。叱ることで関係を悪くしておきながら、援助しようとするのは難しい。
人は自分が嫌だと思う人の言うことは聞かないもの。この人はちゃんと自分のことを見てくれていると思えばこそ、話を聞いてくれるものなのだ。
カウンセリングに来る人は自分が大嫌いな場合が多い。でも自分はほかに置き換えられない存在で、自分という道具はずっと一生使い続けないといけない。
その私が嫌いなら、人は幸せになれない。だから自分をなんとかして好きになってほしい。自分が役立たずでなくて、誰かの役に立てている。そう思える。
【人生は他者との競争ではない】とも主張している。しかしビジネス社会では競争がある。競争心を持たないと人は成長できないし、組織の活力も失われるような気がする。
競争は当たり前とされているが、アドラー哲学では、それはノーマルな状態ではないのだ。アドラーは競争ではなく協力を重視している。
『競争に勝ち残ればいい』という考え方では、負ける人がたくさん出てくる。むしろ、そういう人の方が多いかもしれない。
競争に負けた人は、心のバランスを失って、精神的な病気になる人も多い。しかし協力を学んでいる人は、必要ならば競争できるが、負けても精神のバランスを失うことはない。
競争に負けたと落ち込むとゼロサム競争の世界になり、組織や共同体のことを考えるとプラスにならない。
『どっちにもいい顔をしたい』といった人の出方や顔色をうかがって態度を決定する態度ではダメだろう。
それを聞いたらほかの人にはあまり言いたくない。自分の手柄にしようと思って言わなかった人が多かったのだ。
アドラーの思想は〔共同採石場〕のようなもので、みんなが自由に落ちている石を拾って持ち去った。
私は、頭ごなしに怒鳴りつけるのは有能な経営者ではないと思っている。ある程度成功するかもしれないが、限界がある。
若い人が、のびのび失敗を恐れず、新しい仕事に挑戦できる状況があるのかないのかは全然違う。失敗したら叱られると、自由には振るえない。
叱って育てられた人は、盆栽のようにスケールが小さくなりがち。
教育では大きく育てることが大事だ。社会とうまくやっていけないと思われているような人が、ちょっと指導すれば大きな花を咲かせる。
短所や欠点があって、ゴツゴツとしたトゲやでっぱりがあるのが人間だ。でっぱりをそいで何かを強制するような教育はよくない。
実際には『これは困ったなあ』という人が最終的には伸びるケースが多い。上司の顔色を見て嫌われることを恐れ、上司が気に入ることしかしない社員は、自発性も創造性もなく、伸びない。
本当に有能な経営者は、そういうことを分かっていて、社員が伸びる環境を整備しているはずだ。
嫌われることを恐れる生き方は、不自由で不便なので、できたら変わりたい。でも『変われない』と思った方が、都合がいい。変わったら、次の瞬間に何が起きるのか分からないと思ってしまうからなのだ。
しかし、考え方次第で人間は確実に変わることができる。
例えば、好意を持っている人が歩いてきて、ほんの数秒後にすれ違う。自分の気持ちを告白したいと思っている人だけど、相手がふいに目をそらす。そういう事態が起きたときに、自分が嫌われていて避けられたと思う人もいることだろう。
でも全く違う考え方をしてもいい。風でコンタクトレンズにゴミが入ったのかもしれない。『嫌われた』と思うのは変わりたくない人のことだ。
もちろん若い人の方が柔軟性はあるので、変わろうという勇気を持って、決心したら短期間で変われるように思う。
家族であっても他人を変えるのは難しい。だから自分が変わるしかない。他者を操作できるというのは誤解だ。
子供でも自由に操ることはできない。子供は自分の期待を満たすために存在するわけではないのだ。
馬を水辺に連れていくことはできても、水を飲ませることはできない。
変われるかどうかは本人の問題。カウンセリングに来るだけで大きな前進だが、多くの人は変わらないでいようと決心している。口で言っても本当は変わりたくない。
確かに嫌われる勇気を持つと、自分は幸せになれるかもしれないが、周囲との関係はどのように変化するのだろうか。
あなたのことを嫌う人は増えるかもしれない。でもそれは自分の課題ではなく、相手の課題です。『課題の分離』を分かっていない人が多い。他人が自分を嫌うかどうかは、私には決められない。
自分が好意的に接しようとしても、相手は嫌うかもしれない。
でも人に嫌われるかどうかを悩む必要はない。通常、自分のことをあらゆる人が嫌うことはあり得えない。
自分を支持してくれる人は必ずいる。そういう人とかかわればいい。
敵視する人はきっといるが、そんな人たちのために自分の人生をふいにする必要はない。つまらないことに、日々悩む必要はないのだ。
神や仏を持ち出さない宗教と言えるかもしれない。神や仏を出すと受け付けない人がいる。
だが、神を信仰していると言っている人が、その教えを実践できているとは必ずしも言えない。だからアドラー心理学は神のない宗教と理解している。
最近の心理学では、あらゆることを脳の機能に還元するような傾向がある。例えば、人が誰かを好きなのは脳がそうさせている。
人間には自由意志があって、何かを自分で決められることを否定している。しかし脳の仕組みで説明できることには限界がある。
トラウマの話もそう。心理学では様々なことを過去のトラウマのせいにするケースがある。
だが、アドラー心理学を研究する立場からは『トラウマは存在しない』と考えている。人間が過去の経験や体験によって決まるなら、治療も教育も育児も関係なくなる。
何でも過去の体験で決まっているというなら、治療のしようがない。
私はカウンセリングで過去を聞くが、あくまで理解のためで根掘り葉掘り聞くことはない。過去を聞いても意味がない。それで、あなたはどうしたいのか。それが重要。何か希望を持って帰ってほしいと思って話をする。
大事なのは、過去を振り返ってあれこれ考えることばかりではない。今、この瞬間をあなたが、いかに生きるのかなのだ。変われるのは自分だけであり、自分が変われば、世界も変わるだろう。