人から「高齢者の特性とは何か?」と問われるときがあります。そんな時、私は真っ先に「個人差が拡大することだ」と答えますね。
例えば、同じ75歳の人でも、すでに寝たっきりになっている人、様々な病気や認知症を抱えている人、介護者なしではひとときも生きることができない人がいます。
その一方で、家族の大黒柱として元気に働いている人、組織や集団のリーダーとして活躍している人、趣味やボランティア活動に情熱を持って励む人、仲間や友達との交流を心地よく楽しむ人など、いろんな方々がいますね。
一口に高齢者と言っても、十把ひとからげに論じることができないのです。
ちょっと哲学的になりますが、老年期には“人生とは何か”や、“生きる意味”などを探ることが課題となっていきます。
年齢を重ねていくと、外の世界に対する現実から離れて、心のエネルギーが内に向かっていきます。内の世界へ深く降りていこうとすると心の働きが活発になって、「何のため生きてきたのか」や「生きる意味とは何なのか」など、自問自答を繰り返していく人が多くなります。
自分の生きてきた証を「子や孫、或いはまだ見ぬ子孫に伝えたい」と根気よく試みる人がいる反面、「どうせ話をしても無駄だ」と諦める人もいます。
老年期に入ると誰でも死を意識しますね。若い時は、無縁で遠い未来のことと考えていた“死”というものが、身近なものになる。
厳密に言うと“死”そのものよりも、“死に至るプロセス”を恐れるようです。しかし、最後は多くの人が死に向かう自然なプロセスの中で、淡々と死を語り、そして受け入れていきます。
私は、数多くの高齢の人たちと接するなかで、その人の“生”ばかりでなく、“死”についても深く思いを馳せながら、自らの死生観や宗教観を養っていく必要があると常々思っています。
“生”のみに焦点をあてた考え方では、到底、高齢者に対する理解ができず、この〈ライフヒストリー良知〉の事業は先に進まないのです。