これまでも何回か、作家五木寛之の書いたエッセイを話題にして、このサイトで書き綴ってきました。

かつて《蒼ざめた馬を見よ》で直木賞を取り、《青春の門》や《青年は荒野をめざす》などの小説がベストセラーとなり、今に至っても日本の代表すべき作家のひとりですね。

彼は、1932年(昭和7年)生れだから、若くして亡くなった僕の母と同じ歳ですね。福岡県出身で、生後間もなく日本が統治していた朝鮮に渡り、父の勤務に付いて全羅道や京城(今のソウル)などに住んでいました。

少年時代は、父から古典の素読や剣道、詩吟などを教えられていたものの、小説などは読むことを禁じられていたそうです。

太平洋戦争の終戦時に、今の北朝鮮の首都・平壌にいたけれど、ソ連軍駐在の混乱の中でお母さんが死去、父と共に幼い弟、妹を連れて朝鮮半島の38度線を越えて開城を脱出し、1947年に福岡に引き揚げてきました。

五木寛之は、昭和から平成にかけて精力的に作家活動をしていましたが、10年程前から、老年期の生き方に関するエッセイなどを書いて、再び脚光を浴びていますね。

《林住期》や《孤独のすすめ》などの秀作を読んで、青春時代に愛読した彼の小説とはまた違う感銘を受けています。

その中でも《回想のすすめ》は、現在僕が展開している口述自伝制作事業の〔ミッション〕や〔ビジョン〕、〔バリュー〕と、まさに相通じるところがありますね。

この中で、「回想というのは、むしろ積極的な行為ではないか」という言葉に共鳴しています。以下にその続きを書き記しています。

五木寛之の「回想に関する考え方」は、たいへん示唆に富んでおり、何回かに分けてその主旨を届けたいと思います。

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回想というのは、過去を思い返すこととされている。しかし、それは「思い出」にふけることとは、どこか違うような気がするのはなぜだろう。

回想というのは、むしろ積極的な行為ではないか。古い記憶の海に沈潜するのではない。なにかそこに発見しようとする行為だからだ。

人はだれでも豊穣な記憶の海をもっている。広く、深い記憶の集積のなかから、いま現在とつながる回路を手探りする「記憶の旅」が回想の本質だ。

自分個人の体験を振り返るだけではない。過去の知識を呼び覚ますことも回想の大きなはたらきである。

時代を回想する。そのことで現在の自分のおかれた状況が、逆光に照らされるようにみえてくるのだ。

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これからも、五木寛之の《回想のすすめ》のなかで、共感した言葉を書き綴ります。

ー続くー

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