かつて〔断捨離〕という言葉が大流行し、今もことあるたびに使われています。要するに不要なものは、捨ててしまおうという勧めですね。

つまりこれは、必要でないものに支配されている暮らしから脱出して、新しい生活を築こうという思想が、その背後にあるからなのでしょう。

この〔断捨離〕について、五木寛之はこんなことを言っています。

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私自身の周囲を見回してみると、まさに不用品やゴミの山である。印刷物からはじまって、衣類や電気製品、記念品、道具、その他のモノたちがあらゆる空間を占有している。

「足の踏み場もない」というのは、まさにこのことだろう。

古い品々は今後、ふたたび使用することなど決してありえないものばかりなのだ。写真類だけで引き出し10段分以上ある。雑誌、本、書類、その他まったく取り出して再読するあてのないものが天井までに積み上げられている。

私がふだん履いている靴は、三足を超えない。それにも拘らず、1950年代に購入した古靴にはじまって現在まで、およそ百足以上の靴が山積みになっている。鞄、トランク、その他のも壁際にぎっしり重なっている。

これらをすべて一挙に捨ててしまえば、どれほどすっきりすることか。毎日のようにそのことを考え、そして諦めるのだ。

すでに超高齢者となった今、将来どれほど幸運に恵まれようと、この世に存在できるのはあと数年かもしれないのだ。それにも拘らず、なぜモノが捨てられないのか。

年を重ねれば、知人、友人たちも少なくなってくる。仕事の範囲も狭くなり、新しい人脈をつくる気もない。

そんな孤独に生きる人間にとって、それらの身辺のガラクタは、いわば人生の伴侶からではないか。靴一足にも、古いバック一つにも、むかし学生の頃に購入した古本一冊にも、さまざまな思い出がつまっている。

私は、回想ということを、老年の大事な営みの一つとして挙げている。思い出に浸ることは、決してうしろ向きの消極的な生き方でないと考えるのだ。

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ー続くー