希望の新年を迎え、皆さん、明けましておめでとうございます。
新春初の投稿は、《後世への最大遺物》の話から始めます。
この書籍は、明治時代の宗教家であり思想家の内村鑑三が、1895年(明治27年)、33歳の時に箱根で講演した内容を取りまとめたものです。
人は後世に何を遺すことができるか、なかなか示唆に富んだ語りで、当社の口述自伝制作〔ライフヒストリー良知〕事業の推進に向け、その礎のひとつとしています。
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何を置いて逝こうかという問題だ。何を置いて我々がこの愛する地球を去ろうか。
後世へ我々が遺すものの中にまず第一番目に大切なものがある。それは〔金(かね)〕だ。
我々が死ぬとき、遺産を己の子供に遺して逝くばかりでなく、社会に遺していくということ。
だが、私のように金を溜めることの下手な者、あるいは溜めてもそれを使えない者は、金よりもよい遺物は何であるかと考えてみると、それは〔事業〕である。
事業とは、すなわち金を使うことだ。労力を使ってこれを事業に変じ、事業を遺して逝くことができる。
しかし、もし私に金を溜めることができず、また社会が私の事業をすることを許さなければ、私はまだ一つ遺すものを持っている。
それは、私の〔思想〕だ。もしこの世において私が自分の考えを実行することができなければ、私はこれを実行する精神と筆と墨とをもって紙の上に遺すことができる。
だが、文学者にもなれず、学校の先生にもなれないのなら、私には何も遺すものはない。
事業家にもなれず、金を溜めることもできず、本を書くこともできず、ものを教えることもできない。
そうすれば私は無用の人間として、平凡の人間として消えてしまわなければならぬか。
だけども、私はそれよりももっと大きい、今度は前の三つと違い誰にも遺すことのできる〔最大遺物〕、利益ばかりあって害のないものがある。
それが〔高尚なる勇ましい生涯〕だ。
これが本当の遺物ではないか。では、この〔高尚なる勇ましい生涯〕とは何であるか。
それは、失望の世の中にあらずして、希望の世の中であることを信じることだ。
ここは悲嘆の世ではなく、歓喜の世であるという考えを我々の生涯に実行して、それを社会への贈物として、この世を去るということである。
これこそ、誰にも遺すことのできる遺物ではないか。
この1年の後に我々がふたたび出会うときは、我々は何か遺して、
今年は後世のために、これだけ金を溜めたというのも結構、
今年は後世のために、これだけの事業をなしたというのも結構、
また、私の思想を雑誌の一論文に書いて遺したというのも結構、
しかしそれよりもいっそう良いのは、
後世のために、私は弱いものを助けてやった。
後世のために、これだけ艱難に打って勝ってみた。
後世のために、私はこれだけの品性を修練してみた。
後世のために、私はこれだけ義侠心を実行してみた。
後世のために、私はこれだけの情実に勝ってみた。
という話を持って再びここに集まりたい。
この心掛けをもって、我々が毎年毎日進むなら、我々の生涯はけっして50年や60年にはあらずして、実に水の辺りに植えたる樹であり、だんだん芽を萌き枝を生じてゆくものである。
我々に、後世の人にこれぞという覚えられるべきものは何もなくとも、あの人は、「この世の中に生きているあいだは真面目なる生涯を送った人である」といわれるだけのことを後世の人に遺したいと思う。
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顧客のライフヒストリーや生き様、その時の思いや考えたことなどを聞いて、訊いて、また聴いて、その内容をレコーダーに取る。
顧客の口調や言い回しなどをそのまま残しながら文章化し、推敲し、当社が独自に作成したホームページシステムに落とし込む。
家族や友人の方々にパソコンやスマートフォンで見て頂き、そして最終的にはハードカバーの本や電子書籍などにして後世に遺していきます。
今後とも、顧客にとっての『高尚なる勇ましい生涯』とは何なのか、顧客の皆さんと一緒に考えていきたいと思います。
本年も、よろしくお願いします。