ライフヒストリー良知では現在、昭和史と平成史の年表をかなり詳細に書き著しています。それぞれ年代別に政治・経済・国際・文化・社会・世相。トピックスに分けて、またその年に流行した言葉や歌、人気のあった映画やベストセラーになった書籍などを掲載しています。

これからは、その年のプロ野球やサッカーの優勝チーム、オリンピックが開催されているならメダリストの名前、芥川賞や直木賞の受賞者の氏名など、その年に起きた様々な出来事をできる限り書き入れるようにします。、

ただ、これはパスワードを入れなければ閲覧することができないようにしています。

この年表のことなのですが、僕が敬愛する歴史家、司馬遷は史記を著すとき、それまでになかった年表というものに着想しました。

史記は、「本紀」12篇、「書」8篇、「表」10篇、「世家」30篇、「列伝」70篇の順で組み立てられています。この中の「表」というのが、いわゆる年表のことです。「表」は皇帝の年代記である「本紀」の後を受けて、歴史の推移を一目瞭然にわかりやすく知らしめるために整理したものです。

史記が出来上がったのは今から2千年ほど前のこと。今でこそ、年表は歴史書に付けるのが当たり前になっていますが、当時は全く考えにも及ばなかったようです。いかに司馬遷が卓越した創造性を持っていたか、また、伝記を読めば読むほど、司馬遷という歴史家がどれだけ才能溢れる凄い人物であったかよくわかります。

若いときから、父親に連れられ中国国内を旅し、そこで見聞きしたことの大部分を自分の脳に記憶させていたようです。何しろ、レコーダやカメラなど何もない時代でしたから。それらを書き著すのは、紙ではなく竹簡か木簡。ひとつの竹札、木札に書ける字数は僅か20文字か30文字で、これを冊にします。一度書いた竹簡や木簡に書き加えたり、改めたりするときは、その部分を削り取らなければなりません。私たちの想像を絶する作業になります。

司馬遷は、友達の李陵をかばって3年の間、牢に繋がれていました。厳しく問い詰められ拷問を受け、最後には宮刑(男の一物を切り取る死刑の次に重い罪)に処せられ宦官にさせられました。普通なら人生を悲願して死を覚悟するところです。

中国には発憤著書の説という言葉があります。これは「この世で志を失った者が、心に結ばれるものに思いを巡らし、感激発憤したものをひたすら文章に託す」という人の生き方のことを言います。

司馬遷にとってみれば、書くというのは生きることだった。それがこの世で生き恥をさらした者にとって、唯一後世に名を残す方法でした。

つまり、史記とは司馬遷が自分の心のうちを、それを志にして書く史書だった。言い換えれば、自分の生ける証として書く、全く私的な史書だったのです。

史記は、司馬遷が望んだ通り、今も光を放って生き続けていますね。