この正月に帰省した二女の子どもたち(7歳、5歳、3歳)をみてビックリするのは、3人ともそれぞれ、娘のスマホを自由自在に操作していたことですね。
この光景を見ながら哲学者鷲田清一さんの言葉を思い出しました。
老いがまるで無用なお荷物であって、その最終場面では介護の対象として意識されるという、そんな惨めな存在としてイメージされるようになったのは、それなりの歴史的経緯がある。
生産と成長を基軸とする産業社会にあっては、停滞や衰退は何としても避けなければならない。その反対側にあるものとして老いがイメージとして位置付けられる。
重要なことは、老いが時間のなかで蓄えられてきた経験に僅かな意味しか認められないことだ。産業社会では経験知よりも、誰もが訓練でその方法さえ学べば使える技術知が重視される。老いが尊敬された時代とは、経験が尊重された時代だった。
かつて囲炉裏端での老人との会話で、孫は老人から知識を得た。今は老人が孫からコンピューターの使い方を教わる。経験がその価値を失うということは、成熟が意味を失うということ。さらに成熟が意味を失うということは、大人になることの意味が見えなくなることだ。
僕たちは、これからますますコンピューターやスマホなどに負けない知恵・智恵・智慧を身に付けないとあかんなぁと、孫たちを観ていてつくづく感じましたね。