前回に続いて、作家・五木寛之の小学校の頃の記憶を書き記します。

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京城でのスケートの記憶

小学校に入学するあたりから、記憶がかなりはっきりしてくる。京城に移ってからは、南山という高台の中腹の官舎に住んでいた。父親が南大門小学校という学校に転勤したためだ。南大門小学校についてはちょっとした思い出がある。

かつて一世を風靡した梶山季之軍団というライターのグループがあった。草柳大蔵グループと共に、雑誌ジャーナリズムの雄だった集団だ。

やがて梶山さんは作家としてデビューするのだが、その頃、どこかの酒場ではじめて紹介されたとき、折り目正しく立ち上がって挨拶し、名刺を出されて恐縮したことがあった。

そのとき、「きみは外地育ちだそうだね。どこに住んでいたんだい」ときかれて、「京城にいたことがあります。梶山さんも京城には縁があったんじゃないですか」と言うと、

「ぼくは南大門小学校だったんだ」と、ちょっと得意そうな表情をした。南大門小学校は、京城きっての名門校だったからである。

「南大門なら、父が教師をしていました」と、私が言うと、ひどくびっくりして、「え? きみのお父さんの名前は?」と、体をのりだしてきいてきた。父の姓を言ったが、残念ながら記憶になかったようだ。

私も京城で小学校に入学したのだが、父の勤めている学校ではなく、近所のミサカ小学校という学校という学校に入学した。ミサカが「御坂」だったのか「三坂」だったのか、いまは記憶がはっきりしない。

当時の写真を見ると、髪を坊ちゃん刈りにして、生意気にもダブルのブレザーを着せられている。大都会へやってきたという気負いが両親にもあったのだろうか。

南山の一角に住んでいた小学生のころ、スケート靴をさげて滑りにいくのは、龍山のほうの漢江(ハンガン)だった。

冬はもっぱらスケートに熱中していた。日中戦争のはじまった頃だが、世間はそれほど戦時一色というわけでもなく、ステーションホテルなどへ行くと、ちゃんとした洋食を食べられる余裕があったのだ。

家庭には普通のトイレしかなかったが、ステーションホテルには水洗のトイレがあって、びっくりしたことを覚えている。昭和十二、十三年頃のことだろうか。

こうして幼児期から小学校入学までの頃のことを思い返しても、やはり曖昧なところが多く残る。たとえば、それが何年で何月頃のことであったか、というような点である。

両親が健在であった時期に、もっといろいろと話を聞いておけばよかったと、しばしば後悔するのが常だ。

余計なお世話だが、若い人たちには親が元気なうちに、父親や母親の思い出話をしっかりきいておくことを、ぜひおすすめしたい。

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私は、最後に五木寛之が書いた「親が元気なうちに、父親や母親の思い出話をしっかりきいておく」という言葉を、これまで数えきれないほどたくさんの人から聴きましたね。

まったくその通りだと思っていますよ。