これまで、作家・五木寛之が書いたエッセイ集のなかで、私がとても気に入った箇所をピックアップし、自分なりの考えや思いも書いて、幾度となくこのサイトに掲載してきました。

特に五木の《回想のすすめ》という書籍は、口述自伝の制作事業を進める上での愛読書のひとつになっています。

この中に「五歳かそこらしかさかのぼれないー記憶」と題して、五木寛之が戦前、朝鮮半島で過ごした幼少期の話が描かれているので紹介します。

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自分の記憶をたどってみる。はたして最初の記憶は何歳ぐらいのことだろうか。考えてみるのだが、どうもはっきりしない。小学校にはいる前のことを思い返してみても、具体的なイメージがあまり浮かんでこないのだ。

両親とともに朝鮮の寒村に住んでいたことをおぼえている。たしか日本人は、駐在所の巡査夫婦ぐらいで、あとはすべて土地の人ばかりだった。

村で祭りがあって、誰かに連れていかれて見物に出かけた。チャングというのか、打楽器や笛の音が響き、着飾った娘さんたちが大勢いた。

広場には高いブランコがしつらえてあり、そのブランコに乗って天高く舞い上がる娘たちの衣装が鮮やかだった。

広場の近くに市場がある。

「イゴ、オルマヨ?(これいくら)」と、チヂミを指さして私の連れがきく。「サーシプチョン(40銭)」「アー、ピッサヨ!」

ピッサというのが「高い」という意味だとくらいは知っていた。当時は日本語が強制されていたのだが、そんな田舎の村では誰もが朝鮮語である。日本語を口にする者は一人もいなかった。

エイのような大きな魚を買って、縄をつけて引っぱって歩いているアボジ―(父親)がいる。マッコリ(どぶろく)を飲んで上機嫌な老人もいる。ドラの音が響き、空中ブランコで天空高く舞い上がる娘たちのスカートが花のようにひるがえる。

この記憶の風景は、はたしていつ頃のものだろうか。私が五歳のときにソウルへ行って、南京陥落の花電車を見た記憶があるから、その一年ほど前とすれば、昭和十一年(1936年)ごろのことだろうか。日支事変と呼ばれた日中戦争の直前になるのかもしれない。

昔は数え年(生まれてすぐに一歳と数える)だったから五歳(今の四歳)くらいだったとも考えられる。私の記憶のもっとも初期に属する部類だ。

私たち一家が住んだその村では、夜になるとヌクテがないた。山犬のような、狼のような動物だと教えられていて、恐ろしくてしかたなかった。

夜更けにトイレに起きる。昔の家は便所が廊下につたって離れた場所だった。その暗い廊下を通るのがひどく怖かった。

ちょうどそこにさしかかったときに、ヌクテの遠吠えがきこえたりすると、走って寝床に逃げ帰ったものである。オネショと呼ばれる寝小便をするのは、そういう時だった。

母親が「早く京城(今のソウル)へ転勤しましょう」としきりに父親に言っていたことをおぼえている。やがてその願いがかなって、私たち一家は大都会である京城へ引っ越した。それが昭和十二年のことだったのではあるまいか。

ー続くー