福沢諭吉が語り、矢野由次郎が筆記し、諭吉が加筆した《福翁自伝》

この《福翁自伝》が、何ら屈託もなく、実に開放的な自己肯定になっているのは、福沢諭吉が考えた日本の近代化への方向と、そこに自分が果した役割を手放しで信じているからにほかなりません。

そればかりでなく、ひとりの日本人が封建的な価値に捉われている状態から、どのように抜け出し、どのように近代的な価値観へと目覚めていったかという部分が、この《福翁自伝》のハイライトですね。

今まで正しいと信じていた事が、一つ一つ崩されて、新しい真理に目覚めていく際の心踊る経験を、諭吉はたいへんユーモラスに、またドラマティックに描いています。

私たちは誰しも、物心つく過程で、何が正しいか、何が間違っているかの判断を、知らず知らずのうちに教えられ身に着けてきました。

しかし、その判断は本当に正しいのか、それを疑うところから、心の目覚めというものが始まります。

日常の生活において、私たちを縛っている習慣や道徳などに疑いの目を向けていくことが、人間を本当に自由にし、歴史を進歩させていく方向に繋がっていきますよね。

『福翁自伝』を読むとき、一番強く教えられるのはこの点だと思いますね。

諭吉が持った疑いの心や精神の目覚めは、人々の心を踊らせるに十分なものがありました。

福沢諭吉は後年、日本の名著の一つとして名高い《学問のすすめ》のなかで、「信の世界に偽詐(ぎさ=いつわり)多く、かの世界に真理多し」と書いています。

そこには、諭吉のすでに世間の常識となっているものに対する、冷めた意識がよく表われています。

《福翁自伝》は、こういう諭吉の冷めた意識でもって、自らから冷めた生涯の決算として著された書籍と言ってもいいと思います。

〔自伝〕の歴史は、近代精神の発達史でもありますね。

何故なら、そこには自らの行為を客観的にみる力と、自分をかけがえのない存在とする意識がなければならないからです。

その意味で〔自伝〕は、単に過去のできごとを語った〔回想録〕と違って、強い自我の意識に支えられています。

〔自伝〕は近代社会の発達と共に、特に近代精神の主張者たちによって書かれてきました。

ヨーロッパで、自伝的な叙述はルネサンスとともに始まり、18世紀になると、フランスの啓蒙哲学者であるジャン・ジャック・ルソー(1712~1778年)の《告白》や、

アメリカの偉大な市民で、独立宣言の起草にも参画したペンジャミン・フラソクリン(1786~1847年)の《自伝》などの傑作が表われます。

そうして19世紀からは、優れた〔自伝〕が咲き乱れる時代になっていきました。

日本では、〔自伝〕が幾つも書かれるのは明治維新の後のことです。そのなかで最初の見事な傑作が、この《福翁自伝》なのです。

その意味で、《福翁自伝》は日本の近代文明の推進者によって書かれたものであり、のみならず、日本における近代精神発達の大きな大きな記念碑として立っているのです。

こうして《自伝》は、20世紀から21世紀の現代も咲き続けて来たし、未来に向かって、これからもより一層美しい花を咲かせていくことでしょうね。

ー続くー