自伝というジャンルを最初に深く研究したのは文芸評論家の佐伯彰一氏ですね。佐伯さんは〈日本人の自伝〉をはじめ、自伝に関する数々の評論を書いています。

「自伝というのは、もともと身近な肉親や友人に向かっての密かな打明け話だ。時には無邪気な自慢話、身勝手な自己弁護は流れたりもするが、パーソナルの親密さという基本的な性格はそんなに変わらない。

自伝の中には、大向こうを狙った演説や演技をやらかす人物もいるが、時が流れ、遠い過去の話になってみると、そうした身振りや気質はその裏側まで透けて見える感じだ。」と言っています。

僕はこれまで、古代から近・現代に至る大陸や朝鮮半島から海を渡ってきた人々、いわゆる渡来人の歴史研究を進める中で、数々の書籍を読みあさってきたけれど、歴史書のなかには壮大なウソや偽りを含んでいることが大いにあると実感しています。

個人史もまた、その例に洩れずというところでしょうか。しかし、押しなべて自伝のウソや隠しごとはささやかで、どこか可笑しみがある。それも含めて自伝ということなのでしょうね。

かつて佐伯さんは、「東洋には自伝なし。自伝はヨーロッパ特有の文化的所産」と考えられていた時代があったと指摘していたけれど、今は、日本でも自伝や自分史を書いて家族や友人に見せたり、後世に遺すことは一種のブームになっていますね。

ワープロやパソコンが普及し、ネット社会になってブログを綴ったり、ツイッターやフェイスブックなどのSNSを活用することが多くなる中で、文章を書くことにあまり抵抗がなくなっている人たちが増えているからでしょう。

ただ、自伝を書くという行為は、その人の全人格とその行動を他人にさらけ出すことになるので、時には苦痛が伴うこともある。決して生半可に書くことができないというのが実際の姿ですね。

それを理解せずに、自慢話やきれいごとに終始したり、ウソや偽りを並べ、また虚偽を施して悦に入ったりすると、佐伯さんが言うように、後にその人の身振りや気質を透けて見られてしまうことになりかねません。

そんな時にライフヒストリアンを活用し、口述の技術や妙を巧みに活かして、それぞれの時代の体験や思いを客観化して自伝の中に盛り込み、その方の筆になるものより優れた作品に仕上げていくことのほうが、絶対にいいだろうなと思うのです。