前回の続きです。

今日残っている〔心おぼえ〕のメモには、この自伝の大体の筋書きや、いろいろな事件の当事者に直接に面会して聞きとったことなどが記されていますね。

このことは、諭吉が、いかにこの自伝にかけたか、その意気ごみのほどがわかると思います。

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福沢諭吉と矢野由次郎の共同作業は、こうして半年以上も続く。

最後の部分の原稿に手を入れ終えて、諭吉がホッと一息ついたのは、明治31年の桜も過ぎて、三田の屋敷の緑もひときわ濃くなった5月11日のことだ。

原稿の最終章に諭吉は、いろいろの感慨をこめて日付けを書き入れ、「終」とする。

こうして決定稿ができあがると、諭吉は門下生を呼んでこれを清書させ、その原稿を〔時事新報社〕へ送った。

この〔時事新報社〕というのは、明治15年(1882)3月1日に諭吉が創立した新聞社で、ここから諭吉は《時事新報》という新聞を出していた。

諭吉の自伝は、この《時事新報》に明治31年7月1日から翌32年2月16日まで、67回に亘って連載された。

しかし、諭吉は自分の生涯を振り返る仕事を終えて、ほっとしたのかもしれない。

《福翁自伝》が《時事新報》に連載中の9月26日の午後、〔脳溢血〕の発作を起こして倒れたのだ。

このときは幸いに回復したものの、この後、諭吉は自分で筆をとる事が不自由となる。諭吉は、この自伝の後に、〔補遺〕を書くつもりだったと言われるが、その計画はついに実現しなかった。

新聞に連載が終わって4ヵ月後の明治32年6月15日、《福翁自伝》は〔時事新報社〕から単行本として発売された。

この本は、なによりも、日本の近代文明の大指導者であった福沢諭吉の自伝であるということ、また文中を貫くあけすけで快活な語り口に話題が沸騰した。

また、本来ならば句点で切るところを、しばしば読点をつなぐようなテンポの早い文章は、大きな人気を呼び夥しい売れゆきを示した。

それ以来、《福翁自伝》は自伝の一大傑作として、文庫本に入れられたり、また諭吉の全集や選集に加えられたりして、多くの日本人に読まれてきたのである。

そればかりでなく、英訳本も出され、欧米の国々でも読まれている。

《福翁自伝》が出るまで、こんなに快活な語り口で、自分を語った日本人はいない。

自分を強く主張する事に対して、とかく遠慮する傾向の強い日本では、さばさばした口調で自分を語るのは、実に困難だった。

《福翁自伝》はその殻を打ち破ったのである。

ー続くー