口述自伝の最高峰である《福翁自伝》。福沢諭吉が明治31年(1898年)、数え年65歳の時に著した《福翁自伝》の情景をここに書き綴ります。

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それは明治30年(1897年)の秋のことだった。

数え年64歳になっていた福沢諭吉は、東京の三田にある自分の屋敷へ、矢野由次郎という速記者を招き寄せていた。

矢野と向かいあってすわった福沢は、身長170センチ余り。その頃としては、中々立派な体格でしたが、さすがに寄る年波に髪は少し白く、またやや薄くなっていた。

このあたりが生涯の一つの区切りだと、彼は思ったのだろう。波乱にとんだ自分の一生をまとめてみようとしていたのだ。

福沢の頭には、おそらく自分のこれまでの人生が、走馬燈のように浮んでは消え、消えては浮んでいたことに違いない。

それは、ちょうど日本の封建社会から近代社会へ変わる、その変わり目に生まれ合わせたものに特有の激動の生涯だった。

将軍の世の中から、天子の世の中になる。儒教の教えが幅をきかせていた世の中が、ヨーロッパ文明のどんどんはいってくる世の中になる。

それは、日本にとって何と大きな転換だったことか。

そうしてその転換は、実は福沢自身の生涯にも、そのまま重ね合わされるものだった。

薄く目をとじた福沢のまえには、そうした過去がはっきりと浮び上ってきた。自分はこの激動の時代を生き抜いてきたのだと。

しかも、単に生き抜いただけではなく、国民を思想的に文明のほうへ導いてきた、充実した生涯だった。そう思うとすでに老境にはいった福沢の体には、改めて力が湧いてきた。

「よし」と低くつぶやいた彼はパッと目を開けて、歯切れのよい口調で速記者に向かって語り出す。ありふれた年表を手元において、心おぼえの簡単なメモを手にしたままに。

こうして始められた自伝の口述は、ほぼ1週間おきに1回およそ4時間くらいをひと区切りとして、その年の冬から翌明治31年の春にかけて続いた。

速記者の矢野由次郎が、それを文字に翻訳して福沢のところへ届けると、その度に福沢は原稿に熱心に手を入れるのだった。

後に矢野は、この自伝を口述するにあたって、ほとんど諭吉の記憶によったようにみえたという。

だが、福沢はそのように一見無造作にみえながらも、実は十分の用意を整えて口述に臨んだ。

ー続くー

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