《文章表現の裏に人の気配を聴く》

上手い文章を書くことが、この事業を成功させるための条件のひとつだと思っています。

しかし、自分なりに上手い文章を書けたと思っていても、顧客をはじめ、たくさんの読み手の心を捉えているかとなると、なかなか難しいところがありますね。上手な文章が書けたと思っていても、いくら名文だと自分で感じていても、人の心を捉えていなければ何の意味もない。そこに文章の〈雰囲気〉があるかどうかなのです。

それについて、国語学者の中村明さんは、「この〈雰囲気〉こそが、人の心を捉えるほんとの名文と、そうでない名文とを識別する唯一の条件である」と喝破しています。

では、この〈雰囲気〉とは何でしょうか? 

中村さんは次のように言います。「例えば、『人が人に惹かれるとき、相手の何に参るのだろうか?』と考えた場合、その人自体に惹かれるというよりは、その人が持つ心の美しさや、やさしさが発散されるときに出て来る、ある種の“気”のようなものにまるごと参るのだ。

読者が、作家や作品を好きになったりするのも、そういうことではないか。作者のものの考え方、感じ方、生き方、またその作者の人柄から自然に滲み出し、いつかその作者が描く作品に、すっかり沁みついてしまった文学的体臭というものがある。

主体化されてそこにある〈雰囲気〉、人はそういう文体に酔うのだ。その意味での〈雰囲気〉を身につけ、人をまるごと惹きつけてやまない文章ーまさにこれを〈名文〉という名で呼びたいのだ」と。

さらに、「〈名文〉という用語をそういう意味に限定するなら、それは自分で書こうとして書けるものではない。また、全神経を集中させ、血を吐くような努力を重ねた末に辿り着くようなものでもない。

むしろ、何の野心もなく、率直に書こうとなどという意識さえなく、気楽にさらりと書いてしまった文章が、実は〈名文〉であったということに、あとから気づく場合が案外多いのではないか」とも。

確かにそうでしょうね。ー続くー