これまで数多くの〈自伝〉や〈他伝〉を読んで気付いたことがあります。

西洋人の書いたものと東洋人の書いたものとでは、思想的に歴然とした差があるということ。

キリスト教を信仰する欧米人と、儒教の国である日本や韓国、中国など東洋人の差、つまり宗教の差が大いに関係することがわかりますね。

どちらかと言うと、西洋人の自伝は、自分を赤裸々に書くと同時に、相手の中にもずんずん踏み込んでいく。

一方、東洋人のそれは、自分のことは洗いざらい書いても、相手の領域を侵す度合いがひじょうに薄い。一言で言って、欧米タイプはたいへんスリリングな展開を見せるけれど、東洋タイプは読んだあとに、何かしみじみとした雰囲気が漂ってくる。

いったいこの感情の違いは、どこから来るのでしょうか?

よくよく調べてみると、どうやら《論語》と《聖書》に答えが隠されているように思います。

孔子は《論語》の中で、子貢という弟子の質問に対して、「自分にして欲しくないことは、他人にもしてはならない」とし、子貢が「死ぬまで人が行うもので一番大切なこととは何か?」という問いに、孔子は「それは“恕(思いやる心)”である。」と答えている。

その後に、「他人の考えや性格なんかに深く目を向けてはならない。それらに触れないのが“恕”なのだ。」と弟子を喝破しています。

つまり、「寛容の心で、自分以外の人を見よ。」と言いたかったのでしょう。一方、キリスト教の《聖書》は違いますね。〈マタイの福音書〉の中で、キリストは次のように説いています。

「自分にしてもらいたいことは、他人にも同じようにしなさい。」相手は自分と同じように思っているのだから、相手の考えや性格をあまり気にせずに、ということなんですね。

どちらがいいかというと、僕は孔子の“恕“がいい。やはり私たちは、遠い過去からこの精神風土で育ってきましたから。

「他人(顧客)に寛容」、これが口述自伝を制作するときのコンセプトと言ってもいいでしょう。ただ、僕自身の自伝を書くときは、過去を振り返ると、この“恕”が欠落していたことがたくさんあったので、それを正直に告白していこうと思っています。

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