僕が、口述で人々の自伝を制作しようと思い立ったきっかけは、内村鑑三の本を読んだことにあります。その後、福沢諭吉《福翁自伝》や勝海舟の父勝小吉の《夢酔独言》などの自伝をはじめ、数多くの著名人や偉人の自伝に接してきて、自伝を遺すことの素晴らしさを人に伝えたいと考えたのです。

内村鑑三は、明治時代の有名なキリスト者ですが、独自の無教会主義を通したたいへんユニークな思想家ですね。《余は如何にして基督信徒となり乎》は、明治期の自伝としては最高級のひとつでしょう。文章は少し難しいですが。

僕は内村鑑三に感化された言葉があって、それは内村の《後世への最大遺物》とういう本の中に書かれています。

「最大の遺物とは何か。私が考えてみますに人間が後世に遺すことのできる、ソウしてこれは誰にも遺すことのできる遺物で、利益ばかりあって害のない遺物がある。それな何であるかならば勇ましい高尚なる生涯であると思います。これが本当の遺物ではないかと思う。

すなわち、この世の中は、失望の世の中にあらずして、希望の世の中であることを信ずることである。この世の中は悲嘆の世の中でなくして、歓喜の世の中であるという考えをわれわれは生涯に実行して、その生涯を世の中への贈り物としてこの世を去るということであります。その遺物は誰にも遺すことのできる遺物ではないかと思う。」

妻や娘を亡くしたことや、自分の考えを主張したことで世間の厳しい批判を受けたり、内村鑑三の生涯は決して順風ではなく試練や逆境の連続でしたが、人生の末期には上記のような言葉を発していますね。

内村の著書でもっとも有名なのは、おそらく《代表的日本人》でしょう。西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮上人の5人を日本を代表する人物として、この本の中で詳しく述べていますが、この5人を選んだことは実に適格であり、僕は心から共感していますね。

《後世の最大遺物》の最後に内村鑑三はこう語っています。

「われわれに後世に遺すものは何もなくとも、われわれに後世の人にこれぞというて覚えられるべきものはなにもなくとも、アノ人はこの世に中に活きているあいだは真面目なる生涯を送った人であるといわれるだけのことを後世の人に遺したいと思います。」