改めて、『聞き書きによる口述自伝〈ライフヒストリー良知〉の制作事業』、これが私たちが展開しているビジネスの正式な名称です。

聞き書きというのは、とても豊かな可能性を持った方法だと確信しています。

そもそも聞き書きというのは、民俗学の中で使われて来た用語ですね。日本の民俗学は柳田国男に始まり、宮本常一はそれを深めてきました。

民俗学の意義は、私たちがその著書を読んで、明治以降の近代化や戦争の経験、戦後の高度経済成長の過程で、人々がそれぞれの人生を生き抜いて、

その時々に、人々が得たもの失ったものが何なのか、人々の心の基底をなしている意識や無意識を支配しているのはどういうものか、などについて知ったり考えたりすることかなと思いますね。

それは、宮本常一の『忘れられた日本人』という本を読むと特にそう感じます。

宮本常一のもう一つの有名な著書《家郷の訓(おしえ )》というのがありますが、この中から少しお話します。

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終戦の頃のこと。宮本の故郷の近くにある島に、一人の老人が小さな小屋を建てて住み着いた。

外地からの引揚者。妻がいたが亡くなりひとり。暮らしは海岸に流れ着いた寄木を集め海水に煮詰めて塩を造り売った。戦後は塩が不足していた。

しばらくすると塩が出回り老人の塩は売れなくなった。ある時、宮本の家の者が芋や沢庵を持って行った。老人は喜んで錆びた釣り針をくれた。やがて老人は病気になりひっそりと亡くなった。

◇◇

宮本はこう言っています。

「この人にも語れば聞かせるほどのライフヒストリーがあったはず。そのつつましく清潔な晩年がおぼろげながら物語ってくれるがこの世に何も残さなかった。

この世に生まれたからには、生きた証や優れた業績を残したいと考える人も多かろう。

私はこの老人に一種の畏敬の念を覚える。老人が親戚の世話を受けようとしなかったのは迷惑をかけたくないという理由だけでなく、老人の矜持(きょうじ)がそうさせたのではないか。強い精神力がなくては塩の貝や海草で露命をつなぐことはできない。

人の一生ははかない。栄耀栄華も一瞬の夢に過ぎない。老人はこのことをよく知っていたのであろう。私はこの老人に比べれば妄執(もうしゅう)の塊でこうした境地には到底達することができない。」

かつて日本には、こんな矜持を持った誇り高き高齢者がきっとたくさんいたのでしょうね。

身体中妄執そのものの僕の境涯は、この老人はおろか宮本常一にもはるかに及ばない。