昔の立派な人たちは、老年期をどうようにおくったのか、いろいろ調べています。

儒教の始祖と言えば、孔子ですね。孔子が弟子たち連れて放浪の旅に出たのは56歳のとき。旅の目的は就職先を求めてのことであったそうです。当時の孔子の名声は天下に知れ渡っていた。それでもなかなか居場所がみつからない。

というよりは、自分の理想通りの政治の実現をめざして、理想の君主を求め続けていたために旅が終わらなかったのです。

理想のため孔子は精一杯努力した。でもその努力は報いられず老境に入る。深い絶望とあきらめばかりだったのでしょうか。そうではないですね。

衰えようとする孔子の気力を支えたのは優れた弟子たちだった。だけど古来稀と言われた七十過ぎ、この歳まで生きた孔子は必然的に子や弟子たちの死を見なければならなかった。そこにも多くの苦しみがあったのです。

孔子のような偉人であっても、決して悟りすました人間ではなく、僕たちと同じようにものごとに熱中したり楽しんだり、悲しんだり嘆いたり、夢中で生き抜いて老いが迫っていることさえも気づかなかったと思うと、孔子がとても身近に感じられますね。

“子の曰(いわく、吾れ十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして迷わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順(した)う。七十にして心の欲する所に従って、矩(のり)をこえず”

“六十にして耳順う”、六十になると人の言うことを素直に聞くことができるようになった。そして“七十にして心の欲する所に従って矩をこえず”、七十になったとき自分を制御できて、たとえ心のままにふるまっても過ちを犯さずにすみ、自分を肯定できるようになった。

孔子が74歳で亡くなったのが紀元前479年、今から2500年ほど前のこと。今なら92,3歳でしょうか。つまり昔の人の一生は、現代に生きる人たちの8掛けですね。この計算でいくと孔子の言う六十は今に置き換えると75歳になり、七十は87歳になりますね。

現代は人生100歳の時代、孔子が今ここにいるなら、八十にして(今ならまさに100歳になる)・・・、この後、いったいどんな言葉を発するのでしょうか。