私が、口述自伝制作〈ライフヒストリー良知〉事業をやろうと思ったきっかけは、司馬遷の『史記』、福沢諭吉の『福翁自伝』、勝小吉の『夢酔独言』、内村鑑三の『後世への最大遺物』などの書籍を丹念に読んだことにあります。

これらの著書に触れて感銘を受け、功なり名を遂げた人たちばかりでなく、ごく普通の人たちが自分の生き様を語り、自伝として後世に残すことの素晴らしさや意義を感じ取り、事業を推進してきたのです。

この『ライフヒストリー良知の世界』の中で、これまで、いろいろ学んだことや知ったこと、考え抜いたことなどを、数多く文章にして投稿してきました。

その中でも私がもっとも尊敬する歴史家の一人、中国の前漢王朝時代に生きた司馬遷のこと、また彼が書いた名著『史記』について、書き著したいと思います。

『史記』は、「本記」12編、「書」8編、「表」10編、「世家」30篇、「列伝」70篇の順で組み立てられています。この中でもっとも〈ライフヒストリー良知〉の関連するのは、この「列伝」ですね。

「列伝」は、人間のいろいろな活動について歴史の流れのなかにとらえ、歴史を動かした人間の実在を個人の性格や思想の中から描きとるという方法をとっています。これは、これまで中国の歴史書になかったこと。まったく前例のない司馬遷の独創ですね。

個別の人物の伝記(ライフヒストリー)を中心にすえて、生きた歴史の実態に迫ろうとした史書を書く方法は、人間を中心に歴史を考える人間主義の歴史観が司馬遷のなかにあって、はじめて出てきたものなのです。

「列伝」編の構想が生み出される社会的背景についていえば、春秋・戦国時代とあいつぐ乱世のなかで、権威そのものの存在が疑われてきて、実力ある個人の存在が尊重されるようになってきたことによるもの。個人の能力や業績がその独自の価値を有するかぎり、それを認め、活用する社会的状況が出現したからなのです。

司馬遷は、元々、天文の観測や暦の作成、伝統的な習慣などを後世に伝えることを生業とする特殊な家系に生まれました。当時、その社会的地位はそれほど高くなく、占いや神に奉仕する専門技術者と同様に扱われていて、司馬遷の家系は、その特殊な知識と技術を代々に伝えていったようです。

司馬遷は、若い頃からそんな父親に連れられて広い中国各地を回り、その土地の英雄豪傑の末裔や古老たちと出会い、数多くの〈聞き書き〉を行っています。昔のことだから、手軽に持ち運べる紙といったものはなく、もちろんレコーダーやコピー機のような文明の利器なんてあるはずがない。そんな中で唯一頼りになったのは、司馬遷の類まれなる記憶力でした。

そして、「後世に『史記』を遺す」という司馬遷の考え方が固まったのは、友人であった武将李陵をかばい、皇帝から死刑判決を受けたが、『史記』の完成のため、敢えて死よりも屈辱的な男のシンボルを切り取られる〈宮刑の道〉を選んだ“李陵の禍”を被ったときからですね。この艱難がなければ、今もなお燦然と輝く名著『史記』も、きっとなかったでしょう。

『史記』は、52万6,500字の膨大な文字数で構成され、それは司馬遷の特殊な知識と技術を生かしたものであると同時に、前述した彼の極めて優れた暗記術の賜物でした。記録する道具がなく、記憶そのものをがそんなに簡単にはできない古代にあっては、当時の人間の記憶力、特に一定の習練を経た者の記憶力は、想像を絶する超能力のようなものであったのでしょう。

その意味で、司馬遷は、まさに超能力者だった。

司馬遷が獄中にいたのは、48歳から50歳のときで、手元になにも資料がないところでも、記憶を整理して組み立てていくことが十分に可能であったようです。獄中の司馬遷は、その頭のなかに『史記』の草稿を構成していたのですね。これは凄いこと。案外、資料にとらわれないほうが、むしろ人間の典型というものを、太い線をもって構成してゆくことができるのかもしれない。かれは獄中にあった3年間、その時間を決して無駄にはしなかったということなのでしょう。

ふつふつとたぎる怨みと怒りを持って、過去、そして、自分を牢に封じ込めた漢王朝の皇帝武帝をはじめ、その時代に生きる人間の象形を再現することだけをエネルギーとして、自らから何度も何度も口唱し、呟き、頭のなかに刻み、詳細に記録し続けていったのだろうと、私は想像しています。

出獄した司馬遷は、50歳のとき〈中書令〉に任ぜられました。〈中書令〉というのは、皇帝の私生活の場の総支配人というべき立場で宮中の管理をする役職のこと。〈中書令〉の俸禄は当時高級の位にあって、これ以後司馬遷は生活にもゆとりができた。また『史記』を木簡や竹簡から書き写すための絹布も、宮廷にあるものを比較的自由に使用できたようですね。

57歳まで〈中書令〉として在官していたが、55歳から56歳ころに『史記』は完成しました。そして、この東洋最大の歴史家である司馬遷はまた、この『史記』を著す一方で、〈太史公自序〉という自らの伝記を書いて遺していますね。

決して、生半可な志では『史記』は生まれなかったでしょう。過去からの記録を後世に遺そうとした司馬遷の〈執念〉の怖ろしさを感じています。

これが司馬遷の話です。現在、口述自伝制作の依頼もかなり増えてきています。「なぜこの事業をやるのか」を明確にしながら、今後より一層志を高く、〈聞き書き〉の技術を磨き、制作のノウハウを積み重ねていくと共に、顧客の皆さまからより深い信頼が得られるようネットワーク型の事業を推し進めていきます。

そして、これまで「東洋には自伝なし、自伝はヨーロッパ特有の文化的所産」と言われたことに反駁し、世の多くの人たちに『日本には自伝文化あり』と言われることを目標に力を尽くしていきたいと思います。