東洋最大の歴史家である古代中国に生きた司馬遷は、歴史書「史記」を著す中で、〈太史公自序〉という自伝を書いて後世に遺していますね。
司馬遷は、天文の観測や暦の作成、伝統的な習慣などを後世に伝えることを生業とする特殊な家系に生まれた。当時、その社会的地位はそれほど高くなく、占いや神に奉仕する専門技術者と同様に扱われていて、司馬遷の家系は、その特殊な知識と技術を代々に伝えていったようです。
司馬遷の著作「史記」は52万6,500字の膨大な文字数で構成され、それは司馬遷の特殊な知識と技術を生かしたものであると同時に、彼の極めて優れた暗記術の賜物でした。
今なら、紙があり、パソコンやスマホ、レコーダーやコピー機があるから、記録というものが容易にできるようになって、記憶力や暗記術はどんどん衰えていきますね。だけど記録がそんなに簡単にはできない古代にあっては、当時の人間の記憶力、特に一定の習練を経た者の記憶力は、想像を絶する超能力のようなものであったようです。
その意味で、司馬遷は、まさに超能力者だった。
司馬遷は、48歳から50歳のとき、友人であった武将李陵ー〈李陵〉は中島敦の小説で有名ーを庇い、当時の漢の皇帝武帝の逆鱗に触れ自分の男根を切除する〈腐刑〉というおぞましい刑罰を命じられ獄中にいました。
しかし、優れた記憶力や暗記術をもっていた司馬遷は、獄中、手元になにも資料がないところでも、記憶を整理して組み立てていくことが十分に可能であったようです。獄中の司馬遷は、その頭のなかに歴史書「史記」の草稿を構成していたのですね。これは凄い。
案外、資料にとらわれないほうが、むしろ人間の典型というものを、太い線をもって構成してゆくことができるのかもしれない。かれは獄中にあった3年間、その時間を決して無駄にはしなかったということなのでしょう。
ふつふつとたぎる怨みと怒りを持って、過去、そして武帝をはじめとしたその時代に生きる人間の象形を再現することだけをエネルギーとして、自らから何度も何度も口唱し、呟き、頭のなかに刻み、詳細に記録し続けていったのだろうと僕は想像しています。
出獄した司馬遷は、50歳のとき、〈中書令〉に任ぜられました。〈中書令〉というのは、皇帝の私生活の場の総支配人というべき立場で宮中の管理をする役職のこと。
〈中書令〉の俸禄は当時高級の位にあって、これ以後司馬遷は生活にもゆとりができた。また「史記」を木簡や竹簡から書き写すための絹布も、宮廷にあるものを比較的自由に使用できたようですね。
57歳まで〈中書令〉として在官していたが、55歳から56歳ころに「史記」は完成しました。決して、生半可な志では「史記」は生まれなかったでしょう。過去からの記録を後世に遺そうとした司馬遷の〈執念〉に怖ろしさを感じています。
歴史家とはかくも厳しいものかと。